茶の湯


茶道

茶の湯は、【書、花、香り、作庭、料理、和歌、美術、道徳、哲学】の要素を取り込む日本文化の宝箱で、しばしば「総合芸術」と評されます。禅の思想を根底とするため、精神主義の側面も見られます。単なる遊興的な趣味に留まらない、言うなれば無限に広がる小宇宙(コスモ)。


実際にお稽古を続けていくと、いかにこの世界に終わりがないかよく分かると言います。お点前を覚えて、免状をもらえば上がりというものではない。人に教えるようになってはじめて、本当の修行の始まりだと。



ここで「茶道のなんたるか」を訳知り顔でとうとうと雄弁をふるいたいところですが、なにぶん未熟者のため、語るすべを持ちません。茶道の歴史をご紹介するだけで精一杯です。



禅の思想は体感を最重要視します。体感の伴わない「知識だけの理解」は唾棄すべきものだと。いみじくも茶道は禅の思想を踏襲しています。ですので、茶道も同じく、自分で体感し気づきを得ることが真髄なのでしょう。




賓主歴然(ひんしゅれきねん) 

なぜお茶の作法は、外の世界の我々に分かりづらいままなのでしょうか。もっと気楽なTea Party(ティーパーティー)にしてくれてもよさそうなものです。その疑問に答えてくださるのが、武者小路千家の家元後嗣・千宗屋氏です。著書『もしも利休があなたを招いたら』の中で、お茶の作法に込められた意味をこのように述べています。


自分を信頼してもらうためにはどう振る舞えばいいか。所作とか作法というのは、それを考えていった結果、おのずと生まれてきた形です。p.70(※1)


茶道では、もてなす側を「亭主」、もてなしを受ける側を「客(正客・次客など)」と呼びます。各々の役割はあるものの、亭主と客は一方向の関係ではなく、互いに気遣いがなければ信頼関係は築けないと言います。このことは普段の人付き合いに敷衍して考えると、合点がいくと思います。


どちらかが一方的にもてなすのではなく、もてなされるのでもなく。互いがそれぞれの立場から相手を思いやりもてなす。p.70


やがて、そういう相互の関係が深まり、(中略)もてなしの世界はどんどん深みを増していきます。そのために、それぞれが常日ごろから心と知識を磨き、感性を豊かにして、備える。茶に限らず、人との間にそういう関係が築けるかどうかで、人生の奥行きは大きく変わってくるのでしょう。p.71(※1)


世の中には様々なサービスがあります。日々、多くのサービスを受けるなか、残念なことに気持ちのいいサービスばかりではありません。単にサービス側の能力が未熟な場合(研修中・新人)を除けば、その人の良識を疑いたくなるような"ハズレ"の接客も少なくないでしょう。彼らの職業意識の低さには呆れてしまいますが、一方で考えるべきこともあります。



サービスを受けるこちら側に落ち度はなかったか?という観点です。「お店のスタッフに横柄な態度を取る」、「格式高いレストランにそぐわない服装で訪れる」、「お金を払ってるんだからと威圧する」。たしかに極端な例ですが、このような姿勢では明らかに良いサービスを受けることは難しいでしょう。



最近もコンビニ店員がお客に激怒する事件が話題となりました。


経緯は、「お弁当を温めますか?」に対して、女性客が「うん」と返事をした。その返事に、店員が腹を立てたというものでした。「『うん』じゃなくて『お願いします』だろ!」と。このケースは、客側の悪態によって通常のサービスすら受けづらくなる適例でしょう。



ともかくもサービスを受ける側が、時折は「自分がもてなしの質を下げてしまっていないか」ということを気にしてもよいかもしれません。




なぜ千家は3つに分かれたのか?

最後に茶道の歴史を一つ。


茶の家には「三千家」と呼ばれる3つの流派があります。《表千家》《裏千家》《武者小路千家》です。この三千家は千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)の子どもたちが作ったものです。表千家、裏千家というのは通称であって、正式な名称ではありません。では正式には?表千家は「不審菴(ふしんあん)」、裏千家は「今日庵(こんにちあん)」そして、武者小路千家は「官休庵(かんきゅうあん)」。



文献によると、お茶伝来の記述が見られるのは日本の奈良時代。中国・唐より日本へ伝わったとされています。ただし、それがどういった形のお茶であったかは定かでありません。現在われわれがイメージするお茶を伝えたのは、12世紀の臨済宗・栄西禅師とされます。その後、千利休により「侘び茶」のスタイルが確立されます。16世紀後半のことです。



千家の始祖・千利休には2人の息子がいました。先妻とのあいだに生まれた道安と後妻の連れ子の少庵です。この少庵が利休の娘と結婚し、生まれたのが千宗旦です。


宗旦の4人の息子のうち、家を継いだのは三男でした。つまり三男が四代目となります。長男と次男は諸々の事情により家を出てしまったからです。家督を譲った宗旦と四男はというと、三男がこしらえた茶室「不審菴」の裏手に隠居部屋を構えて暮らしました。その後、四男は父・宗旦の死後そのまま裏手で茶室を興します。


こうして千家は二つに分かれました。同じ敷地にあった家なので、京都の人々から「表側の千家と裏側の千家」と区別されていました。そこから、現在の「表千家・裏千家」と呼ばれるようになったそうです。


ちなみに、武者小路千家を興したのは二男・一翁宗守です。一度は茶の世界を離れて漆屋の養子となった二男でしたが、晩年になって再び茶の世界に戻ってきました。祖父・少庵がかつて隠居していた別宅を受け継ぎ、茶室を構えたそうです。その場所が武者小路という通りにあったため、武者小路千家と呼ばれるようになりました。



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三千家は協議の上、「千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家(の嫡子)とし、二男三男にはこれを名乗らせない」と定めます。茶道で千家といえば、表千家・裏千家・武者小路千家の三家に限定されました。断絶するかもしれない危険を承知で、一子相伝の道を選んだのです。こうして三百年経った現代まで本物を守り抜くことができたのです。




参考文献:(※1)『もしも利休があなたを招いたら』千宗屋(著)角川書店(2011/5/10)

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