江戸の地霊:将門公の影

平将門

平将門は、903(延喜3)年に生まれた平安時代の関東の豪族で、平将門の乱の首謀者とされる人物。桓武天皇の数代後の孫にあたる皇族の血筋であったため、自らを「新皇」と宣言し、東国の独立を掲げる。そのことで京都の朝廷から目をつけられ、「朝敵」として朝廷軍に討ち取られてしまった。その際、片目を矢で射抜かれ、首を刎ねられるなど非業の死を遂げたことが、後の世に暗い影を落とすこととなる。



東京都千代田区大手町1の1の1


平安時代の武将・平将門公の首塚である。周りがビル群に囲まれるこの異質な空間に、毎年9月22日になると周辺の大企業の幹部らが集まり、慰霊祭を行う。なぜなら、この場所は平安時代よりたびたび激しい祟りを起こしてきたからである。



将門公の首塚は、江戸城(皇居)の大手門正面に位置する。天海大僧正によって意図的にこの場所に残されたとみられる。大手とは将棋で言うところの「王手」、すなわち大手門とは大名や役人が登城するための正面玄関である。


そんなド真ん前に首塚が祀られたのはなぜなのか。一説によると江戸開発の地鎮祭として、地霊・将門公を手厚く祀ったとのことだ。実際、江戸の開発図を見ると、将門公の首塚を中心にして「の」の字型に拡大していくのだった。



平将門魔方陣

将門公を祀る神社や塚は都内にいくつかある。それらを線で結んでいくと、不思議なことに「北斗七星」の配置となっている。北斗七星信仰との結びつきが見て取れる。ゆえに、これは北斗七星を用いた鎮魂の意味があったと推察される。

平将門公の肉体の一部が下記の場所に祀られている。

鳥越神社  :手
兜神社   :兜
将門塚   :首塚
神田明神  :胴体
筑土八幡神社:足
水稲荷神社 :調伏
鎧神社   :鎧



将門公伝説

歴史古典文学の『太平記』や『平治物語』において、将門公の記述がある。天皇に仇なす者として首を刎ねられた平将門。さらし首にされてもなお「斬られた五体はどこだ」と夜な夜な叫び、人々をおおいに恐れさせたそうだ。さらに、明治以降も将門公の祟りともとれる怪事件が起きている。



甲)大蔵省の記録より

1923(大正12)年の関東大震災で大蔵省庁舎は焼失、その際に大蔵省は首塚を崩して平らに整地した。そしてその上に仮庁舎を建ててしまった。その後、起こるべくして祟りが起こる。大蔵省の記録によると、この仮庁舎で怪我や病気になる者が相次ぎ、ついには大蔵大臣や幹部職員が14人も変死するという怪異現象が起きたという。震え上がった役人は仮庁舎を取り払い、鎮魂の儀を執り行ったのだが、事態は収まらない。

1927(昭和2)年、今度は大蔵省本庁舎に突然落雷が落ち、多数の死傷者が出た。しかもこの年は将門の没後ちょうど1,000年にあたっていた。急遽、大蔵省役人全員で将門公にお詫びし、古跡保存碑を建立した。それから、大蔵省はこの地を逃げ出し、霞ヶ関へ移転したのだった。


乙)GHQ関係の資料より

第二次世界大戦敗戦後にアメリカ軍がやってきて、ブルドーザーで整地し始めたところ、なにかの石に当たって横転、2人がその下敷きとなり、ひとりが即死した。よく見ると首塚であることが判明した。


丙)朝日新聞(「たたりと近代ビル」1970年7月19日付)より

1961(昭和36)年、首塚の旧参道上に日本長期信用銀行のビルが建った。二年後、塚に面した各階の部屋の行員が次々に発病。神田明神の神官を招いてお祓いする騒ぎとなる。




将門とその家来の子孫は、1,000年以上経った今でも成田山新勝寺には参拝しない。なぜなら、将門公を調伏しようとしたのが成田山新勝寺だったから。ここへ行くと、産土神の平将門公の加護を受けられなくなってしまうという言い伝えがあるそうだ。


さらに成田空港建設の際、将門公の亡霊が出現したという。相次ぐ社会的な事件、将門公と因縁浅からぬ出来事ばかり。否が応でも将門公の祟りでは?と勘ぐってしまうのだが。信じるか信じないかはあなた次第です。




参考文献:『江戸の都市計画』宮元健次(著)講談社(1996/1/10)

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