なぜ徳川慶喜は最後の将軍となったのか

徳川家の相談役・天海大僧正はこう遺言した。「水戸藩より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」


はたせるかな、第15代将軍の徳川慶喜は水戸家から出てしまう。その後、在任年数わずか1年にして、大政奉還~明治維新、ついに徳川幕府は終焉を迎える。


この謎を解くカギは「鬼門」。水戸藩(茨城県)は、江戸城から見て東北=鬼門に当たる。風水学では、東北は変化・相続をつかさどるとされる。水戸藩の方角から将軍が生まれることは「相続が変化する」ことを意味し、徳川家の存亡が危ぶまれる。だから、水戸藩から後継ぎを迎えてはならないとした、と考えられる。



江戸城の鬼門除け

1603(慶長8)年、徳川家康が幕府を開いた江戸は四神相応の思想を強く意識していた。

江戸城の場合、北の山に相当する玄武大宮台地。南の朱雀東京湾であり、西の白虎東海道。東の青龍にいたっては、隅田川、中川、荒川、江戸川と4本の川が揃って東を守護している。その点から見れば、江戸は1,000年の都・平安京以上に優れた四神相応の地であったことは間違いない。


その後、江戸を風水都市として強化すべく、天海大僧正が手腕を振るったことはすでに見てきた。※『上野山内月のまつ|歌川広重|名所江戸百景|』参照


おさらいすると、彼らはまず、江戸の鬼門にあたる丑寅の方角に東叡山寛永寺を置き、さらに鬼門封じとして常陸国(茨城県)に水戸藩を配置している。また、裏鬼門に相当する西南(未申)の方位には芝の増上寺を建立した。


ちなみに、徳川家康は1542(天文11)年、八白の寅年生まれである。陰陽道では、この年に生まれた者は丑寅(東北)未申(西南)の方角が弱点と言われている。そこで天海大僧正は、丑寅の鬼門だけではなく、鬼門に次いで恐れられている未申の方位、つまり裏鬼門も同様に重視したという。



徳川御三家

江戸幕府には、徳川御三家(尾張藩・紀伊藩・水戸藩)と呼ばれる、将軍家の次に位の高い三家があった。この徳川御三家の役割とは、将軍家の世継ぎが途切れる問題を未然に防ぐことだった。すなわち、将軍家に後継ぎが生まれなかった場合、これらの藩から世継ぎを迎えようというわけである。実際には、紀伊家から吉宗(8代)、水戸家から慶喜(15代)が将軍に就き、尾張家から将軍は出なかった。



ただし、水戸藩からは可能な限り世継ぎを迎えないようにしていた。その理由は、はじめに説明したとおり。水戸藩が丑寅の方位、すなわち鬼門に位置するからである。もし、そこから世継ぎを迎え入れるようなことになれば、徳川の世が終わると言われていた。はたして、徳川15代将軍徳川慶喜は水戸藩から将軍に迎えられ、260年余り続いた江戸幕府に終止符を打つ役目を果たすことになる。




参考文献:『現代に息づく 陰陽五行』稲田義行(著)日本実業出版社(2016/3/20)

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