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一生

人生とは何なのか?人はどうして生きるのか?人間だれしも一度は考えたことのある問いです。生きていれば、さまざまな葛藤や不安、悩みに直面します。答えの出ない質問も、「考え続けることが大事」と言いますが、個人的には次のように思います。そもそも正解など無いのだから、自分なりにベターな答えをさっさと決めてしまったほうが、よほど建設的な態度ではないかと。「巨人の肩の上に立つ」という言葉があります。「先人の積み重ねた発見の上に、新しい発見をすること」のメタファー(隠喩)です。要するに、すでにその道のプロが考えてくれた発想に乗っかれば、真理に近づきやすいということです。今は亡き偉人たちも、人間である以上、われわれと同じ悩みを抱えていました。ですので、古今東西の先人たちが、生きることをどう捉えていたのかを垣間見れば、悩み解消の参考になると思うのです。そういうわけで、今回は「人の一生」についての、金言・至言をもって、最後のブログ記事とさせていただきます。+─+─+─+─+─+─+─+哲学者ガブリエル・マルセルの言葉人間が他の人間に贈ることのできる最大の贈り物はなんだと思いますか?人間が人間に贈る最大の贈り物、それは「よい思い出」です。どれほど立派な品物でも、いつかは壊れます。壊れなくても色が褪せてしまいます。でも、よい思い出は一生変わることはありません。一生続きます。そして、それを君が語り継いでいけば、その次の世代の心にも残るでしょう。よい思い出を人からもらうようにしなさい。それと同時に、よい思い出を人に与えるような人間になりなさい。 ――今道友信『人生の贈り物』より

名画に見る『受胎告知』

アントネロ・ダ・メッシーナ「受胎告知のマリア」(1476-77年)シチリア州立美術館蔵受胎告知処女マリアがイエスの母となることを天使から告げられる「受胎告知」。キリスト教にとって重要な出来事のひとつであるため、多くの名画が製作されました。実は、受胎告知の記述は、4福音書の中でも「マタイ書」と「ルカ書」にしかありません。さらに、天使による受胎告知を書いているのは「ルカ書」だけです。その場面での主要なモチーフは、百合の花を持った大天使ガブリエルとマリアです。百合の花は、マリアの純潔の象徴です。ところで、マリアの目の前に本が置かれている場合があります。イエス誕生を預言する旧約聖書の「見よ、乙女が身籠って男の子を産み」(「イザヤ書」7章14節)のページを読んでいたまさにそのとき、大天使ガブリエルが懐妊を告げたのでした。あらすじイエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1:18-19)ガリラヤ地方のナザレに住む、マリアと大工のヨセフは婚約していた。あるとき、処女マリアの元に大天使ガブリエルが現れて、マリアの懐妊を告げる。するとマリアは「私はまだ男の人を知りませんのに」と戸惑いながらも、最終的に御使いの言葉を受け入れる。一方、マリアが身籠っていることを知ったヨセフは、律法を守る人だったので、密かに婚約を解消しようと決心した。ところが、ヨセフの夢に大天使ガブリエルが現れてこう告げた。「恐れず妻マリアを迎えよ。彼女の胎に宿っているのは聖霊によるものだ。彼女が生む男の子をイエスと名付けよ。この子こそ、人々を罪から救う救い主である」と。ヨセフは命じられたとおり、マリアを家に迎えた。百合の花百合は、最も古い栽培植物として知られます。紀元前3,000年には、すでにその記録があるのです。風が吹くと大きく揺れることから「揺すり」と呼ばれ始め、それが変化して「百合(ゆり)」という花名になったという説があります。特に、花弁が6枚の白百合は「マドンナ・リリー」と呼ばれます。マドンナ=聖母マリアの持物(アトリビュート)として描かれてきたからです。そのため、花言葉は「純潔」。光のように白く、内側の黄色い花粉も黄金に輝いて見えたせいか、百合は聖なる花として崇拝されてきました。「光の花」のイメージが、天上と繋がる神秘の象徴とされたのかもしれません。

この壺は満杯か?

財務省による「森友文書改ざん問題」が取り沙汰されています。政治家がどちらを向いているのか、官僚が何を守ろうとしているのか、それぞれが本来の在り方を見失っているように感じます。官僚も入省当初は、「国に仕える・国民に仕える」という高い志を持っていたはずです。しかし、いつしかその点を忘れ、大きなうねりに飲み込まれていったのでしょう。翻ってわたし自身に当てはめてみると、仕事において、何のために・何を成すために、自分は在り続けるのか。そのことを考えるきっかけとなりました。一連の報道に思いを巡らす中で、あるエピソードを思い出しました。ここで紹介させてください。<<===============================>>※以下、新潮文庫『会社がなぜ消滅したか』より引用ある大学でこんな授業があったという。  「クイズの時間だ」


教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生たちに聞いた。「この壺は満杯か?」  教室中の学生が「はい」と答えた。「本当に?」

そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。その砂利を壺の中に流し込み、壺を揺すりながら、
岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。

「この壺は満杯か?」  学生たちは答えられない。一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。


教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から、砂の入ったバケツを取り出した。


それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。「この壺はこれでいっぱいになったか?」学生たちは声を揃えて、「いや」と答えた。  教授は水差しを取り出し、壺の縁まで水をなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。「僕が何を言いたいか、わかるだろうか?」一人の学生がこう答えた。「どんなにスケジュールが厳しいときでも、最大限の努力をすれば、さらに予定を詰め込むことができる、ということです」これに対して、教授は
「それは違う」と答え、この寓話が暗示することを話す。「この例が私たちに示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後、二度とない、ということなんだ。君たちの人生にとって『大きな岩』とは何だろう。それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり―――。ここでいう『大きな岩』とは、君たちにとって一番大事なものだ。それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君たちはそれを永遠に失うことになる。もし君たちが小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。そして、大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果、それ自体を失うだろう」<<===============================>>ビジネス書『7つの習慣』の「第三の習慣」でも、近いことが書かれています。